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2024年 01月 20日
和声 和声の概念

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 事実認識
 日本の和声学が今世紀に入ってかかえている主要な問題の一つは事実認識に関わるものである。和声学は果たして獲得可能であるかどうかをめぐって、日本の和声学は自家撞着的な独断規定と、前例主義的な俗説に準拠する愚挙、音楽経験がしばしば裏切られるという不整合と矛盾を野放図に標榜する指導原理から否定的な挑戦を受けてきた。J.S.バッハ和声の導音技法、ハイドン和声の連続5度技法、モーツァルト和声の " 連続8度・連続5度書法 " の検証分析および比較分類は、 いずれもこれらの例外的判断の強要に対する回答の好例であった。とくに歴史的な事実存在の知識に関して伝統的な技法と書法を獲得するために、ベートーヴェン、シューマン、ブラームスはそれが実現可能な「環境世界」を思索したり、 実在的有効性と擬似的非有効性それ自体を区別することにより、 技法・書法の実用的な条件を明確化しようとしたのである。同様な認識は、現代の作曲家や演奏家そして音楽学者たちの間に多くみられる。



「 伝統的な技法 」

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* 和声学と演奏活動相互の離反 *


 「導音進行は限定されていたことは事実か」というような「事実に関わる認識手段」としてきわめて重要なのは、理論である。私たちは、検証した事実から理論を組み立てる。しかし、認識手段となる基本的基準「歴史的存在」「伝統的技法」「実在の検証と分析の資料」が概念枠組となってはじめて、事実の認識が可能になる。このような枠組のなかで、私たちは事実を取り扱うのであり、したがって、和声理論では「特定対象の事実」に対して矛盾する捉え方があれば、当然のように「定義変換」が起こる。
 禁則規定が反証され理論が新しい状態に入ることを、理論が「定義変換」するという。定義変換というのは、たとえば導音の進行が実在検証によって非限定性と性質をかえるような場合を指す理論用語であるが、もう1つ例を挙げれば、属7の和音の和音構成音である第7音を検証していくと限定性が消滅する場合にも、定義が変換したという。


 コミュニケーション消失
 一般的には、実践構造の解明がともなう。連続5度の場合で考えると、ルネッサンス ➨バロック ➨古典派 ➨ロマン派音楽と解明が進むにつれて、和声学を基礎づけるための、あるいは学習効果を推進するための禁則規定は矛盾する。連続8度の場合でも、どの方向から考察しても同じであるが、一般に、「始原の合理性_連続5度」と「和声としての存在_連続8度」の構造は音楽の世界の実践構造においては明らかに実現され存在している。定義変換が起これば、象徴的事実があらためて認識され、理論構成の在り方も変わってくる。その視点のもとにみられる「事象現象の全体」つまり「存在するといわれるあらゆる概念」の在り方も変わり、古典和声という実在のそれへの認識つまり理論の形成の仕方も変わってくることになる。これを和声学という概念に即して言いかえれば、実在性に対する認識が変わるのに応じて「理論と演習」の構成のされ方が決定的に変わってくる、ということになるであろう。



「 実在に属する聴感覚的所与 」


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* 導音技法の定義は実在学的な問題 *


 たとえば、並進行(連続)5度という「概念」にしても、それと連動している「音楽知識」にしても、けっして音楽的に禁則とされものではなく、古典音楽においては明らかに生成された「歴史的存在概念」となる。連続8度も同様である。パレストリーナの音楽においても、バロック_J.S.バッハ・ヘンデルの音楽においても、古典派_ハイドン・モーツァルトの音楽においても、それは音楽作品とともに保存され継承された「伝統技法」として存在する。そしてそれこそが、和声学の理論構築のための検証分析と概念定義の対象となったものなのである。


 古典音楽の果たす役割
 検証によると、音楽の世界にあって、静的な状態のなかでなく、私たちは動的な状態のなかで旋律を取り扱うのであり、導音は、旋律となる音であるから、その進行には様々な方向がある。進行が広い領域に及んだとき、一般には随所でこの方向性の異なる進行が展開される。つまり、進行方向がいたるところで自由に変化する導音が出現する。狭い領域内では進行は単一であるが、そういう多くの導音進行が表出されるところでは、多種多様な動きをともなう導音が生じるわけである。

      属和音の第3音_「導音」は長3度下行することもあれば、短2度上行や長2度下行することもあり、完全
     4度また減4度上行そして増1度下行することもある。たしかに、バロック音楽で実在性を意味する導音進行
     という概念は、多元的・開放的存在であり、「音楽に表出された存在」、音楽として成り立っている存在とい
     う意味を込こめて人間によって生成されたものである。



「 常軌を逸した概念定義 」


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* 伝統的な技術知 *


 「上行」も「下行」も、いずれにおいても音楽の制作過程が問題になるのであるが、音楽においては、その制作の働きはあくまで人間のそれである。ということはつまり、人間の制作行為に定位して形成された導音進行の歴史的な実在概念が意味を変えながら古典派やロマン派和声の概念に受け継がれたということである。古典音楽から容易に検証できるように、日本における旧態的和声学の「導音の扱い方」「導音進行」という規定は、たしかにこの実在和声の解析から定義されたものであると主張していたが、「現に機能している導音進行」というその意味は、古典音楽の制作が完了してその歴史的な結果として存在するという「導音進行」の原義とはまったく逆になっている、と理論家は指摘している。

      先にも考察した通り、このような属性、つまり客観的実在性を否定する テキスト「和声 理論と実習」 およ
     び「別巻」の、「由来証明」や「出典=伝統的技術知」さえも示していない「導音は限定進行音」は、理論と
     しての「資質」を備えていない、いわば「常軌を逸した概念定義」であることが、ここからも確かめられる。

 古典派音楽に生成される属7の和音_第7音進行_についての様々な概念定義の場合にも、同じようにして限定という欠陥規定が設定され、さらには固定化されてしまう事態があった。そうした欠陥規定が事象現象の理論的論理的な説明にあらわれる場合を、事実および本質との「不整合」あるいは「矛盾」という。最近の実証的研究では、「限定という規定」が不整合と矛盾をつくりだす最初の過程である。理論的には様々な事実認識での誤認が考えられる。誤認とは人間が自らの体験を思い出せなくなること(忘却)。長いあいだ蓄積した知識が分からなくなること(喪失)」が指摘されている。したがって、欠陥規定は、遵守が強制されるとき、大きな影響力をもった「限定される」という実在還元能力の劣化、さらには本来の美学や芸術論に逆らって、芸術にある存在論的機能を認めることができなくなるという「感性硬直」と「認識障害」を引き起こすと考えられており、そのため、たとえば規定「導音は限定進行音」による演習の成績評価は、その影響力に相当する大きな「教育弊害」をもたらすことが予想されていた。*_その通りになったのである。
 実際に、美しく調和する4声体コラールの多種多様な導音進行を指して原則無視。また、「導音重複」の技法で構成された和声なのに、_片方の導音は導音とは言わない。 _「和声 理論と実習」および「新しい和声」の規則禁則規定に影響されるいわゆる「楽曲分析」や「聴感覚」になると、反時代的、反文化的傲慢さによって、この驚くようなことさえもが当然のことにされかけた。


 バロック・古典派和声の再検証
 実在の忘却_<不整合>を示すような直接的間接的な証拠はある。それは、限定規定が単なる俗説、つまり西洋音楽の和声についての理論とするがゆえにその根拠となる叙述がない規定、という証明がすでに得られていることである。そのような場合、一般的に自然科学では理論の転換が起こるが、和声学も著しい不整合あるいは矛盾が生じたのであれば「見直し」があるはずである。「導音進行はなぜ限定されないのか」。それは、古典音楽という多くの実在を対象にすることで、その検証論的効果として説明できるのである。
 分析資料の喪失_<矛盾>については、ルールによって立っていた日本の芸術大学や音楽大学の指導者は気がついていたことは確かである。そうした矛盾は西洋古典音楽(バロック・古典派・ロマン派和声)の定義説明のはじめにあらわれていたはずであるが、現在のところ、それについての修正的変換的な検証がなされたという報告は聞こえてこない。本質との矛盾というのは、古典音楽の和声における不合理性のことであるから(古典音楽は導音進行の開放的な属性によって成り立っているのだから)、実在検証に基づいた基礎論の構成において「欠陥規定」を問うことが命題となれば画期的である。
 事実との不整合にせよ、本質との矛盾にせよ、このような人間の思惟や文化社会のうちに存在するいっさいの可能性を否定する検証不在の規定、規則主義者の理論構成の失敗にひそむ限定が、ほんとうに古典音楽に存在したのだろうか。もし定義変換されれば、現在はまだ道半ばである「規則論の解体と撤去」への、1つの進展が得られることになる。



「 思索の総合作用 」


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* 規則論の解体と撤去 *


 導音は限定されない、を定義する検証がある。しかも、古典音楽の和声のあり方を、規則に準じる存在と解するのはすべて、実在の事象現象に対する事実誤認であることは明らかだと、それは示している。このように実証的研究は、「現存在」つまり「実在」は歴史的実践的存在に由来し、もはや例外論などではなく、少なくとも「西洋バロック・古典派音楽」を表示する和声理論の基本概念は人間の実現行為に基づいて形成されたということを解き明かし、規則論のような限定規定の不整合の、それもその核心部に長いあいだ「分析資料の喪失による理論的論理的な不整合と矛盾」つまり「規定崩壊による欠陥」があったということを実証してみせるのである。
 もっとも、実証的研究は、和声の基本概念を思索してきたと研究の主張するこの和声理論に明確な検証と分析、そして、事実の説明に還元可能な演習を加える。研究によると、パレストリーナやJ.S.バッハやハイドンに代表される「ルネッサンス音楽から古典派音楽の大作曲家たち」は、「歴史的実践的実在」を認識する「表現者」ではあったが「規則主義者」ではなかった。彼らの思索も、「歴史的実践的実在を認識すること」ではあっても「俗説に惑わされるような規則規定」ではなかった。彼らは規則主義者よりも「もっと開かれた思索者」だったのであり、「思索の別の次元」を拠りどころにしていたのである。
 人間の認識活動は、規則禁則と規定されたことすべてから始まるのではない。限定規定の懐疑、歴史的実践的な実在論、実在と擬似の和声の質性を峻別することによって知識の成立する条件の明確化、それらとの脈絡のなかではたらく思索(見分けることや判断することも含めて)の総合作用全体から始まるのであるが、旧態の規則禁則規定の不整合と矛盾が引き起こす実在還元能力劣化による聴感覚硬直と認識障害については、章を改めて考えることにしよう。



# by harmony-front2 | 2024-01-20 15:18 | 和声 和声の概念
2024年 01月 20日
実践構造の解明
実践構造の解明
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 和声の理論体系が 1970年以来かかえている問題は、知識獲得のための_実践構造の解明_および_多義性と可能性_に関わるものである。さらにその体系は知識がいかなる検証領域と概念枠組よって獲得できるか、という知識の起源・変化・発展の分析資料_事象現象の本質_に関する問題をかかえている。従来の規則論が、知識の獲得と構成にあたって無証明の演繹的方法を強調するのに対して、現代の理論家はそのような方法を概念定義の武器とするのではなく、理論の知識に関して唯我論と結びつきやすい懐疑論を回避するために、「単なる自然倍音列による限局的規定」と「人間的実現行為自体に定位した存在」を峻別することにより、論理整合的な知識の成立する条件を明確化しようとした。それと同時に、実証主義はその論理的な説明を裏付けるためにもっと決定的な証拠を持ち出すのである。同様な立場は、次世代の理論研究者たちの間にも見られる。


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「 実践構造解明のプロセスが始まっている 」


 理論についての思索
 旋法と音階、旋律と和音、段落と終止が、それらは音楽的空間のまわりではじめてそのはっきりとした形態をとるようになり、それらがそれぞれにそれとして現われ出てくることになるのである。このように響きを聴かせ、立ち現われることそのことを、そしてその全体を中世の音楽理論家たちは「和声」と呼んだ。和声は同時に、人間がその響きのなかに、またその空間に自らの住まいを定めるあの存在に光を当てる。私たちはそれを「和声法」と呼ぶ。_和声法とは、けっして不確定なものではなく、立ち現われるすべての現象を、しかも必然的に立ち現われる現象としてのそれらを、そこへ引き戻し迎え入れるところである。立ち現われる現象のなかで、迎え入れる現象としての和声法が存在するのである。_和声という規則禁則を超えた存在は、それに耳を傾けることによって、それまで無定形であったところに1つの多様な世界を開き、そのありのままの世界を和声法へと送り返す。そのようにしてはじめて和声法そのものも、和声と認められる原初として姿を現わすのである。

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* 音楽作品を知覚できない禁則規定 *


 音楽作品において和声と和声法は親和性の高い関係に立つ。理論家は、古典音楽のなかで展開する和声と和声法との親和性が、古典和声の生起であって、古典和声の実現態(存在する状態)であると述べている。つまり和声法とは、事象現象が事象現象として現われてくるそのありさまを、いわば具象化してみせるものであると考えている。そのかぎりで和声理論は、古典和声に「1つの世界を」開く「存在論的機能_和声をつくりあげている多元的で開放的な実践の総体」というものを認めているのである。だからこそ、世界の部分的そして限定的存在にすぎない原則規定や漠然とした声部書法から出発して、古典和声の存在を理論的論理的に捉えることはできなかったのであり、古典和声は和声法の検証分析を放棄してどこかに存在するとはけっして言えない、という実証的研究の主張には説得力がある。
 理論における論理的思考はいずれも、ものごとのはじまりを記憶している。そして、合理的客観的に概念化する能力を必要とする。言いかえると、それは和声の事実の存在である特定対象を検証する能力である。つまり実在検証の結果資料を分析する能力といえるかもしれない。和声の世界に開かれた事象の本質の存在_事象現象の内容_を確かな実証方法で綿密に組み立る論理的能力、いわゆるものごとの成り立ちを思考する能力の原型は、"実践構造"を理論的に織り上げる糸としてはたらくのである。この過程は和声理論の定義に関する質性を考える上でかなり決定的な問題なので、これを考えておきたい。


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「 テキストの根本問題 _ 例をあげるなら 」


 区分論理の崩壊
 先にもふれたが、 「和声 理論と実習」「別巻」「総合和声」において、原則主義の概念の定義および原理ではもはや事実の存在に関わる実証論などでなく、「存在_J.S.バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン」などの古典音楽に関する命題が直接採りあげられている。それは、「存在(実在するということ)は_現象内容を示すものではない_非現象的」という命題であり、これは原則の証明根拠や範囲と適用の弁明的論理に見られるものである。というのも、現に「現象内容を示す」とした定義は「規則」と言って、最後には「特殊な思想的雰囲気=揺れ」に駆けこんでしまう規定であり、その実質的内実をみると「限定」であり、理論用語としては通常「実在的」「実在性」と解される。
 しかし、原則主義のこの命題の「現象内容を示す」とした部分を「実在的」とすると、「存在は_実在的ではない」となり、まったく意味が分からなくなる。「限定」も同様であり、これはたとえば「範囲と適用」の核心をなす「規則禁則一覧」のうち「範囲」の領域的区分の1つとしてあらわれる概念である。これも従来「あつかう和声の範囲に学習者をいたずらに閉じ込める意図はない」という意味に置き換えられてきた( … と語っていた )。だが、そうなると、それが「適用」の様相的区分の1つ「どこまでが限定され、どこから制約されないのか」が分からなくなる。これは_細かいことにある特殊な規則をかぶせようとして、それらの区分論理が破綻してしまうということを意味している。
 この「和声 理論と実習」「別巻」「総合和声」は、 そしてこの欠陥規定を拾いあげた「新しい和声」の理論と論理は、かつてフランスの音楽理論家ケックランが指摘していたように、存在するものについての思考を自省するという仕方で、歴史的存在の解明を果たそうとしているテキストでないのは明らかであった。

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* 和声の可能性 *


 これらの規則に見られる歴史的存在概念の暴力的否定、強引な造語法、曖昧な撞着語法による正誤判断、限定的反復、例外・偶成・ゆれ・機能離脱といった抽象的思考への偏愛、 これらはこの「和声 理論と実習」の命題の一環であり、「総合和声」もまたそれを共有しているにすぎない。これはきわめて当然であろうが、結果として、歴史的存在、つまり_和声の成り立つ構造_を規則のあいだに探し求めても捉えられるはずはない。では、それを何処に求めればよいのか。それを示唆するのが、次のような命題である。
 規則を規範とした学習環境は、多少の幅はあるにしても狭い限定の範囲を認識することしかできず、現に与えられている実習環境に閉じ込められることになる。しかし理論的には、その環境を離れることは学習者にとって「無考え」を意味する。与えられた規則がすべてであり、それはそれしかありえないものなのである。学習者のこうしたあり方を、現代の理論家が「規則環境拘束性」と呼んでいる。そこには「語り継がれるかつて」も「いまに続くこれから」もない。ところが、感覚の発達がある囲いを超えた学習者は、記憶や想像の働きによって過去や未来という次元を開くことができる。
 もっと正確に言えば、規則のなかに、ある矛盾「伝統技法すなわち実体概念をあつかうことのできない枠組についての弁明」、差異化「和声の世界の現象と原則の規定とはちがっているという事実認識」が起こり、そこに過去や未来を感じたり考えたりする場「人間の現実性つまり可能性が活動する領域」が開かれてくる。そうした知識に関わる関わり方が経験といわれるものなのである。
 学習者は、現に体験している現象構造の知識をもちながらも、そこにかつて聴いたことのある現象構造や、聴くことの可能な現象構造を重ね合わせ、それらをたがいに切り替え、相対的な表出の関係におき、そうすることによって、それらさまざまな現象構造の知識のすべてを和声のあり方としてもちながらも、けっしてその1つに限定することのないような概念を形成して、現に体験している現象構造をその概念のもち得る可能な1つのあり方として受けとることができるようになる。また、規則に拘束された実習環境にとらわれた学習者のように、自分に与えられている限定の現象構造をそれしかないものとして受けとるのではなく、他にもありえる現象構造の可能な1つとしてとらえ、いわばそこから実在との隔たりを認識することができるようになる。

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 その実在検証の比較と分類によるあり方が「和声」と呼ばれるのである。したがって、「和声」とは、実際に機能しているさまざまな「現象構造=伝統技法」を相互に関連させることによって構成される自立した「合理的な存在論的構造」であると言えよう。


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 実証的研究はここで、この「規則」および「限定」いわゆる「原則」を「実在的・実在性」と解するのは誤りであると主張する。原則という用語は、どのようなものにも共通した根本的なものを指す「元」の語に由来するのであって、「事象の現象内容を示す」という意味に解される必要がある。少なくとも従来はそういう意味でしか使われなかったことを証明する。原則主義が述べる前提とされた「特定対象_西洋古典和声の表象」についての声部書法のように、和音連結の正誤判断における「基本的基準」となった規則禁則の、それも長いあいだその核心部に明白な「存在の事実誤認」があったことを指摘し、しかも「課題の実施」の内実を挫折に導いた限局的で誇張的な原則規定を変換してみせているのである。



_「 存在証明と実証方法 」_


 実在の存在証明
 実証主義はこの証明を次のような理由で否定する。つまり「・・がある。(それは)_・・である」_たとえば「導音は限定進行音である」_という命題において、すなわち「である」_「限定進行音である」_という規定は、主体概念「導音」のもつ現象内容を示す規定である。この場合、その導音が実際に存在するかしないかは問題にならない。一方、_「導音がある」「ここに導音が存在する」_という命題における「がある」「存在する」は、「主体概念の現象内容」を示す規定ではなく、その対象と判断主体の認識能力との間にどういう関係が成り立っているかを示しているにすぎない。「存在するというのは現象内容を示す規定ではない」のである。したがって、完全な存在である原則はどのようなものにも共通した根本的な現象内容を備えている必要があるというその現象内容に「存在する」ということまでも含めて、「ゆえに原則は存在する」と結論づけるこの証明は誤りである、ということを実証主義は論証する。もっと簡単に言えば、「・・がある」という意味での存在を、「・・である」という意味での存在に吸収することはできない、ということである。

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* 直示的定義 *


 こうして実証的研究もまた、「存在」を認識客観がおこなう1つの働きであると考えていたことが明らかになる。現代の和声学は、実証的研究の究明したこの「主体概念の現象内容」にさらに分析を加え、実証的研究が「・・がある」という意味での「事実存在」、つまり「和声構造」を成り立たせている「表象」を、認識客観のおこなう「知覚活動」、あるいはもっと広く「思考活動」であると考えていたことを確かめる。そして現代の和声学はさらに分析を進め、実証的研究のこの「思考活動」はもっと広い意味での「可能性を発揮し活動させる人間の現実性」とみることができるので、実証的研究の根底には、「存在する」ということを「描かれてそれがあること・表出活動の成果」とみる存在概念である、ということを論証してみせるのである。「表出活動の成果」などというと改まって聞こえるが、要するに「描く」ことであり、人間が理論環境を考えるのであれ、実習環境を構成するのであれ、今まで与えられていた「歴史的存在概念の事実的本質的内容」を、また今まで認識されていなかった「基本概念」、いわゆる私たち人間につねに語りかけている主体概念の「開放性」を眼前に引き出す働きであるといえる。
 だが、翻って考えてみれば、こうした可能性に導かれた現実肯定の開放的な理論環境も、その理論環境を実習環境にもたらそうとする発展的な思考も、前世紀末の規則主義に替わって今世紀初頭以来思索されるようになった実証主義的な「実践構造の解明」に見られるものである。それが従来的規則論の挫折によってさらに意識を高めて、これらの理論に結晶したと見られないこともない。少なくともその理論は、0.アラン や E.コステール、Ch.ケックラン や V.パーシケッティらの和声理論上の実証主義と決定的に影響し合って日本の和声学領域に新しい思考的環境をつくりだしたのであり、バロック・古典派・ロマン派の和声もその思考的環境のなかで捉えてはじめて理解可能になるのである。

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* 原理否定 *


 そもそも「和声 理論と実習」 の規則にひそむ実在に対する偏執が、地味な詭弁のなかに逃げ込もうとしたのは、西洋音楽における「事実」のもつ相対的な「本質」を描いた大作曲家があまりにも柔軟で賢い大きな存在であったからだ。そのために、対象という「事実の存在」「・・がある」の検証、しかも、本源的現象という「本質の存在」「・・である」の分析をともなう比較分類の統合統一は困難であるとして顧みることはなかった。このような歴史的実在との接点を保持できない規則を根拠にした「理論と実習」では、実在的な実践構造を概念化して説明するという考えは消えてなくなる。
 しかし、歴史上のパレストリーナ・モンテヴェルディ・J.S.バッハ・ハイドン・R.A.シューマンによって和声空間に表出されたものは何か。それはやはり何らかの合理的な思考にちがいない。とすれば、和声理論は、原則以前の存在、創造者たちが和声的な必然性として表出した理解可能な実在的機能の事実と本質について改めて考える必要がある。とりわけその検証と分析は、本来、事実・本質を含んでいる「そうであるもの」と「そうでないもの」を見極めるための確かな手段である。もし、原理的に表明する規定(明証性)と実践構造の可能性(自然性)とのあいだに立ちはだかる証明の誤った原則規定があるなら、根源性に立ちもどる実体概念の解明そのものが不要であるとするに等しい。

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* ラモーの示唆した導音進行 *


 現代の和声学における理論体系は、「存在する」ということは「創造されてあること」とみる存在概念が準備されている、ということを対象の直示的定義の比較分類を通して証明してみせるのである。要するに、「存在する」ことは「創造する」ことであり、歴史的・実践的実在_バロックの和声であれ、古典派の和声であれ、先行する時代にはなかった存在概念を眼前に出現させる働きであることを明らかにしたのである。
 理論的な範疇でしかない調構造の検証領域が、従来の限局的な検証領域から和声全体の領域に広げられたとき、はじめて直面した実在する現前の対象における事象現象が限定制約を超えたところで起こっている感性と存在、つまり知を中心にして形成される「不均一な実践的実在」であった。そうした実在は、理論家には知的精神作用のもとになる思考の種を、理論体系の梗概には事実存在を命題とする基本的前提の手がかりを与えたのである。


 初発的表象
 それにしても、あえて原則とされた概念規定が、本来的な事実検証によるものではなく、科学的、天文学的である、という確証もないことをたびたび聞かされると、手持ちぶさたで困るものである。もし、倍音共鳴に和声学的な説明能力があるなら、和声理論は物理学の一分野である音響学とほぼ変わらないようなものになる。 20 世紀後半、 19 世紀的機能理論において行き過ぎから生じた公理自体の矛盾が指摘され、人間的実現行為の音響論による説明は和声学固有の研究領域と連帯性をもつようなものではないことが確認されている。

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 さらに、理論の検証と分析が不十分であるなら、私たちはもう一度、これらの問題を援護する観念的憶測をあらわにし、これに批判を加えることによって旧態的認識の根拠づけとは別の方法を考える必要がある。というのも、規則主義者は原則的質が「古典音楽に見られる規則違反・禁則の存在」により引き下げられると考えるのは、それらは社会のもつ文化的質と美的感覚のレヴェルを間違った方向に導くものであり、そうした選択は例外になると単純に思い込んでいるからなのである。
 だが、人間的実現行為についての知識が増せば増すほど、まだ判らないことが多く残っているということが判ってくる。事実、理論家は基礎論にしても、その体系の概念規定において基盤となるものが自然倍音列である、と主張するのであれば、逆に、音響学の科学的実験をやり遂げる技術を持ち合わせていないことたいして批判的反省をするのであれば、他の方法で、「和声の世界という特定対象を介して人間が思考選択してきた事象の現象内容を示唆できる能力」をもつ必要があった。

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* 禁則規定の挫折 *


 とはいえ「J.S.バッハ」の和声の検証によれば、何をしたいかを問う事象現象には、すでにその「初発的表象」においてさえ、さまざまなコミュニケ―ションが展開する実践構造の存在が認められた。

      それに対して、和声理論は、現存する表象についての概念定義を自省するという仕方で、この歴史的・実践的実
     在に展開された事象現象の「分析的原理的な解明」を果たそうとしているのである。現代の情報豊かな教育環境の
     なかで考える若い世代の学習者たちも、たとえばこんな疑問をつねに投げかけていた。彼らの言葉をそのまま借り
     ると、「和声空間を響きわたる壮大な古典和声よ、多様であり変化があるのはなぜなのか」。だが、「矛盾するこ
     となくすべての事象内容をそなえる原則よ、なぜ単細胞であって、それ以外の存在でもないのか。どうして唯一で
     あって、無ではないのか」。これらの疑問こそ、あらゆる「問い」に対する「答え」を含んでいたのである。

 こう問いかけられてみると、なんとも奇怪な「原則規定」である。はたして原則のもつ意味はそれに尽きるものであろうか。創造的想像力と人間の現実性を学習目標としない規定は、「実践構造の解明」に際して、実質的内実を見失う公理の下で限定的現象だけを正しいとするために、開放的な実在のあり方に向けられた徹底した「否定」と、規則禁則にひそむ他性への配慮に対する「無化」の働きが必要であった、ということになる。
 そこで明らかになったのは、記憶や論理的思考によって音楽文化社会と接点をもつことを命題にしながら、過去や未来つまり「多義性と可能性」を開くことができる_「実在の検証能力」とは何か、そして_そのために時代を追った「実在検証」のかたちをとっている「実践構造の解明」とはどのような思索によるものなのか、という問題である。とすれば次に、「従来的な規則論の限定」という実習の枠を超えて、バロック・古典派・ロマン派和声のいわゆる「歴史的存在論」をも視野に収めた思考活動を「和声理論」のもとに展開することのできる、人間的実現行為に定位して形成された「多義的で可能性豊かな和声法」を追ってみることにしよう。


 分析データとの整合性
 しかし、原則主義の思考から検証の対象となる「事実存在」の全体像は消えてしまった。それどころか、中途半端な推測や規範が続出し、分析資料によって認識されろ「本質存在」と「規則禁則の現象内容」は一致しなくなり、基本的前提である実在についての概念認識のないまま説明が進み事態はますます混乱していった。こうした状況であれば、和声理論の大部分の領域では「質問」の数の方が「理論から出る答え」の数より多くなる。だが、答えの内容から判断して、少なくとも妥当な質問をしていることが分かればまだいいが、西洋古典音楽についてはその限定(括弧付き条件を含む)に関する「答え」が質問の数よりもずっと多いのである。いずれにせよ、「質問よりも答えが多い」という`原則環境`が意味することはただ1つ、事実存在の事象現象からはずれた質問をしているのであり、事実存在の概念定義と構造認識の大きな変換が迫られていた、ということになる。
 物理学の共鳴原理によって構成されたとする公理的な方法による原則規定を、理論体系の基本的基準とする原則主義は、実在を正面からとらえることもなく、他の命題の演繹の基礎とはならない公理矛盾を繕うために引き出した用語表現を用いて、「限定という規定に該当しない現象」を何であれ「ゆれ」と判断する主張を掲げた。となれば、歴史的な古典和声_バロック・古典派・ロマン派の調和声は_単なるゆれの和声_になってしまうのか。そうした判断は、実在を例外とみる原則を設定して実在からの離脱を考え、人間の創造的想像力を単なる感覚経験的意識におとしめる反自然的な論理である。しかし、人間的実現行為によって成り立っている実践的実在という確かな事象現象を前にして、科学的な思考分野ではまったく信じられていない。私たち人間は、科学の働きを完全に人間的な習慣としないかぎり、科学の働きなどけして信じないものである。その恒常的・本質的現象、つまり非均質な運動がどのような物理的原理によって起きるのかを全く説明できない懐疑論に陥ってしまうからである。
 端的にこの問題を要約すれば、第1に、その命題の解決を均質性の概念に求めることは限定的な構造認識の考えであり、第2に、その命題「均質性の概念」はそれ以外の命題「非均質性の概念」を並列させるために、その構造認識は概念を正しいか正しくないかの判断で論じることは不可能となり、共鳴原理を基盤とする論理的な機能和声理論としては一種の自己否定をしていることになる。いわゆる概念化の矛盾であるが、この判断による用語表現を完了したとき、あるいはこの論理的説明を手にしたとき、原則独自が扱っている規則禁則などの諸規定はすべて消滅する。とはいえ、この判断で構成される原則の場合では、旧態原則の限定制約によって拒否された事象現象も和声の世界の明証的な構成要素になるのであるから、多様と変化が起きるための領域において生成された存在は基本的前提となる。そしてさらに人間の素質や能力が活動する広い空間の概念認識があらためて必要になる。

        規則から作成した基本的基準で、古典和声の導音進行に特殊な限定作用が働いているかどうかに言
       及し、原則の規定では有意に高いことが示されるが、実在検証にあらわれる分析データではその結果
       は出なかった。

 現代の和声理論では、論理的原則や論理規則論の規定に固執する論理機能論が撞着的として批判され、論理機能論より存在論的機能が重視される。その場の都合がよいようにとりあえず物事を処理する便宜的手段の問題とちがって、どういう実在状況でも一般的に説明できることを大前提とする和声理論の問題は、存在の意味の不明瞭、混乱、不当な概念化とそれに対する事実認識の関わりから生まれ、したがって様々な方法で実在と関連づけて根本問題の命題や概念の意味を明らからかにすれば解消される、という基本的な認識が存在論的機能の実証の背後にある。和声理論は「実証」によって現象的特性を抽出し「比較分析」によって実在的概念をを定義する。しかし、新たな知識体系をもたらす資料は、原則規定への問いかけの賜物である。和声の理論や演習の意味は、それぞれの資料がもつ背景によって大きく変わる。
 和声理論はそうした総合理論なのである。その応用範囲は、過去の多様な人間的実現行為の過程・方法・成果を扱うだけでなく、人間の思惟・存在・実践の将来予測へとつながっている。

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 理論に求められる必要な条件は分析データと矛盾がないことである。言い換えるなら、その理論が適用可能なデータに対して、理論いわゆる原則の規定が一致するということである。しかし、自分の理論を展開している人間のなかには「こう考えれば、説明できる」という説明だけで矛盾はないと主張する人間がいるが、たとえば、規則主義者が頻繁に発する「原則は無視されることがある」、などのいい加減な説明はけっして認められないのである。この「無視される」ということの意味は、その原則が「矛盾している」ということにほかならない。無視されないことこそが原則の本性なのである。

        ところで、科学の分野では、このように原則の規定と分析データの間に「整合性がない事態」をな
       んと呼んでいるだろうか。そして現代の理論家が、原則の規定_限定進行・禁則_を事実・資料・情
       報に照合すると整合性がなく、信用性に疑いがあると指摘していたのはどのような理由からか。そこ
       に何が起きていたのか。まぎれもなく_存在論的機能と規則禁則の最大限のへだたりが指摘されてい
       るのである_その「理論と実習」において、「事実」と「本質」という存在が「基礎論」の説明のな
       かで実用的連関から引き離されたままになっているのはどういうことなのか。

 「和声理論とは、その時代におけるあり方よりも、現在において理解されるものである」という考え方は誤解を生みやすい。とりわけ西洋バロック・古典派の調和声のような概念化においては、特定対象のあいだの包括的な関係を反映するところの、基本的命題の重層的な関連性をひもとく実在についての検証分析が要求されることになる。つまり、論理矛盾が解消されたとされる「総合和声_実技 分析 原理」としての_原則の内容_は何を指すのかが問題なのである。
 とはいっても、片方で、原則主義は実在からの贈りものである和声の基本現象を自分が規則としたもの、自分が禁則としたものと判断をあやまり、例外・不可といっては原初の存在の記憶を徐々に思い出せなくなる。しかも機能和声論の大前提を発しながら、迷妄と自己撞着をはらんだ機能離脱などという詭弁も弄して、理論用語さえ、自由に操れるもの、単なる意思伝達の手段だと主張する。そこには「存在忘却」がある。このような意味での忘却は、人間にとって「存在論的機能の喪失」を意味する。いずれにしても、実在にあらわれる実践構造の和声論的営為と論理概念は、まだ本質的に体系化されていないことは確かである。


 実証方法
 どのような検証分析も理論構成においてはないがしろにできない。その理由は二つある。
 第1の理由_は、特定対象の検証分析は概念認識の基礎となるからである。それは歴史の古さに比例して少なくなってはいくが、それでも、バッハ以前のバロック和声よりも古いルネッサンス和声の概念でさえ、認識根拠となる確かな証拠をもって証明する実証的研究の影響下にある。またバロック・古典派の和声全体も、それよりもっと広い範囲の対象に対して行なわれる「事実認識」によって論述されている。
 第2の理由_は、つまり実在の検証分析は対象が増えれば増えるほどその意味は大きくなるということである。まして様々な条件をもつ西洋古典音楽の和声様式の項目において、その項目内で事象現象的に「必ずそうなる」と言える内容を説明できる原理的表明ではなおさらである。
 しかし、公理的方法による仮説は、実在を概念化しては多様と変化を思い起こし、学的検証分析を放棄していたのでは「規則禁則は事実ではない」に行き着くので、塀のなかに閉じこもってばかりではどうすることもできず、その仮説の存在証明や証明証拠の実質的内実を知る人たちにあっさり反証されてしまった。

       公理的方法による理論の失敗は、西洋音楽の和声が何を語ったとしても、その全体を統一して語る
      ことは困難である、といって、その検証分析とそれにもとづく証明さえ拒絶すればよい、と考えたと
      ころにある。もし、バロック和声全体の検証が可能であるすれば、規則にとって都合が悪い、ことに
      なり、しかも「検証分析は意味をなさない」「事実存在に基づく研究は私たちを欺き真理から遠ざけ
      る」「本質存在の定義変換は無益だというにとどまらず、積極的に分析をやめるのが規則にとって妥
      当なことである」の総括的言説や信仰的感情を正当化すれば、規則禁則にとって都合がよい、という
      客観的実在性の否定に追い込まれ、それによって理論構成に必要とされる概念定義のとどまることの
      ない漂流が始まっていたのである。

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 問題にされているのは、私たちが自覚的・主体的・能動的に関わり、自然な「知識」や「判断」を形成していく「場」の有無なのである。和声理論とは、実在における事象現象の根本的な存在を概念化するものである。したがって、実在概念とともに、記憶の共有装置であるデータベースが重要になる。和声様式というと、規則を駆使した疑似概念のようなものだけを思い浮かべるが、実は古典音楽のなかに人間の思惟・選択によって実現された「和声法」にこそ、和声理論の本質が存在している。均質空間で推し量られた規則禁則に無自覚なまま組み込まれるのと、むしろ、理論的資源となる仮説などの真偽を証明可能検証を契機として、自らが実在的・実在性の事実確認のできる「場」をつくりあげようと努めるのとでは雲泥の差がある。というのも、私たちが互いに検証した環境世界のイメージを伝え合うところから「リアリティ」が生まれるからである。それは主観性の域を超えて音楽文化社会的に通用するから「客観的事実」となるのである。行き過ぎた音響論による不明確な概念から解放されない公理を、さらに検証分析を拒絶する原則を古典音楽の事実と思い込むことは自由であるが ...... 。限定された局所的規則には、和声が和声をのりこえ別の何かを呼び出そう、といった機能はなくアクチュアルとは言い難い。原則が長期間にわたって完全性を主張し続けた実質的な内容のない規則禁則の時代は、いつのまにかもう過ぎてしまっていたのか、ということを研究者は感じている。
 対象である西洋古典音楽の和声という前提を認めるならば、そこから演繹された実在を認める必要がある。前提を認めた上で、その演繹命題を認めないことは、公理の矛盾を表明していることに等しい。ここで問題になるのはまさにそのことである。しかし、公理の矛盾表明で判るように、正しいというあり方は結局のところ前提から演繹された他の実在を認めない定義概念であり、同時に、私たち人間の頭でも悟ることができる知識論は、暗黙のうちに、限定を認める濾過装置や制約を奨励した遮断壁によって成り立つものではではない、ということになる。だからこそ、和声理論を古典的対象のなかのたった一つの書法(4声体)と事象現象(公理)のみを問題にするような_「理論未満の一元的活動」_とするわけにはいかないのである。
 というのも、本来的な様式特性を対象にする和声理論というものは「認識された根拠」と「定義された過程」への問いかけが行なわれ、音楽的な事実を和声学的な事実として扱う抽象を必要とするからである。検証分析が概念規定の抽象過程をはっきりさせることも重要である。実在を解釈するような場合はとくにそうである。もし、概念規定が対象すなわち検証分析される本来の対象さえ明らかにすることができるなら、無益な疑問や誤解もなくなるだろう。私たちは様々な音楽の合理的経験において意識的あるいは無意識的に分析対象と向かい合っている。どのような理論も、基本的前提と枠組となる「実証的研究の対象」そのものを明らかにできないのであれば、様々な概念のなかのどれが和声を定義するのに相応しいものであるかを一義的に決定することはできないのである。



# by harmony-front2 | 2024-01-20 15:17 |   実践構造の解明
2024年 01月 20日
実在の基本概念
実在の基本概念
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 和声理論とは歴史的・実践的実在によって構成・組織・思考された何らかの「理論」である。音楽の創造者が志向している和声的な実践や聴取が、和声の事象現象に与えている解釈の数と種類にアプリオリな限定はない。理論の研究対象がもつ現実的な世界を本来的和声性の欠如態、その廃頽的な様態とみているのでは、和声学というものはあり得ない。和声学的な検証分析は、和声の世界特有の根本的概念・比較分類・定義される様式特性の相対的な記述から成り立っている。もし和声現象が実在的な事実として確かな形で存在するなら、和声現象の実在性も確かに存在する。しかし、その象徴事実は「公理からの演繹的な部分構造」よりむしろ「統一体系の全体構造」のうちに求められるものである。
 和声理論は、人間的の現実性、つまり、人間の素質や能力という可能性の活動状態を通して構成され、音楽的なコミュニケーションを行う上で欠かせないものである。理論がもつ概念規定を実際に古典音楽に適用できるかどうかは重要な問題である。その概念規定を詳細に検討しながら、私たちは、古典音楽において展開された事象現象とルールは何が違っているのか、を知ることがまず必要であろう。確かに、人間はそれなりの先験的な知識環境に生きている。しかし、人間はその時々の知識環境に拘束されることなく、むろん目的を実現するための多様な可能性を足がかりにして、もっと広い世界に開かれていた。
 ひとつの例で考えてみよう。現代のにおいては、公理的方法に代わり厳密な対象の全体的な検証分析を実行しても理論体系が成立することは明らかである。これは歴史というものが私たちに教えてくれた事実である。そのような問題を検討する場合、まず、理論の前提と定義の内容がもつ特徴を整理しそれぞれについて考える必要がある。また、基本的前提の解釈や、概念の定義が実際上何を拠りどころにしているものなのかを考える必要がある。そして、この理論と論理を構成する「概念規定」はつねに作曲家・演奏家・音楽学者や評論家たちの批判の対象ともなる。これらの概念規定、これらを生み出す分析方法、そこで指向される定義的方向性は次のような結論を引き出すことができるのである。


 共通感覚の意味
 和声の世界に規則禁則という限定制約が人間の共通感覚として本当に存在していたのであろうか。そもそも、基本的前提が概念規定の「定義変換」ができずにルール依存に陥ってしまったのは、事実の検証分析にもとづくさまざまな現象の概念定義と比較分類が非力であったからだ。理論が思弁的そして唯一性の概念規定に依存する時代はすでに終わった、ということができる。むしろ私たちにとって必要なのは、さまざまな合理的経験を取捨選択する能力を駆使しながら、和声を理解することである。そのことについて Ch.ケックランはこう述べている。「分析の目的は、歴史的存在つまり音楽の領域を逸脱せずに、多くの事実を示しながら理論書を現実的・具体的なものにするところにある」 ( Traite´ d'harmonie 和声論 1927-30 )。
 私たちが批判しているのは次の点である。理論は様式論であるとしながら、「バロック・古典派の和声」を主体にする基本概念が「そこに存在する和声構造」を「禁則」としたり、「普遍に関する曖昧な論理」を「対象を特定し定義するための方法論」、また「つくりたいように作曲することを否定するものではないが、現実問題として規則禁則のような内容を実際の作品から何らかの形で自力で抽象することは大変な労力を必要とする」、などの不可能説を大々的に主張し、概念的方向とその規定を証明以前の「無定義概念」とすり替えてしまう誤りである。すなわち、人々が実際の音楽作品から自力で抽象する能力を疑い、その「象徴化の可能性」を全面的に打ち消していることである。こうした言説を整理してみると、和声学の目的がルール主義に縛られている現状、また、その理論と演習は前提と枠組の内容から乖離していることが少なくない、という指摘が、容易に理解できる。当然のように現代の古典和声に関わる理論構築において、ひいては古典という語義の論述において、規則禁則の説明的論理を観念論の産物でしかないことを見抜いた研究が理論構成に関わらないはずはないのである。洗練された人間は人間の能力を資源とみなし、有益な資源の還元を目指して自己自身に働きかけるのである。

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* 理論の実証 *


 事実の論述において、それを厳密に元の状態に戻すことができない書法と擬似イディオムを規範とする理論と演習が、そのような認識論や根拠づけを放棄するルール習得を最終目標にかかげ、一方的に人間の経験的音感覚に関わる正誤判断を続けてきたことはまぎれもない事実である。これらの状況が、理論と演習の理念としての「グランド・デザイン」を描くことができずに「古典は美的関心に値するものか」という関心を、また「芸術概念が普遍化の対象に適するものか」の論議を、さらには「合理的概念である伝統性の直接的な探究や概念の形成に関わる認識の発展」という人間的な成熟を拒絶してきた。現代的な企てからこれほど隔たった理論構成がほかにあるだろうか。古典音楽の和声の世界を概念化して他の対象を比較するための抽象は、その象徴事実を認識するために行なわれる。私たちがこれらの過程を放棄するなら、私たちはこれ以上、和声の実在に関わることはできないだろう。それはたしかなことである。しかし、その逆もまた真である。私たちが、音楽的な実在に関わり続けるなら、従来の無証明な公理の矛盾は解決され、私たちは、音楽的な和声の展望と視野をもつようになり、すべての実証的研究が和声に関心のあるすべての人々のために進められていることを理解するだろう。


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 さて、和声理論の実在性を述べる前に、いったい人々がなぜそれほどまでに和声の世界に深い関心を寄せるのかを考えてみたい。音楽活動上の必要性もあるが、何よりも大きい理由は人間の好奇心である。和声はどのようにして存在し始めたのかなどの疑問は、誰もが心に抱いた覚えがあるのではないだろうか。

             若者は、事実を知る前からうなずく
             何に対してうなずくのだろうか
             ルールに対してよくうなずく

             若者は、ルールの由来を調べたわけではない
             ルールが事実と矛盾していることは知らない
             矛盾という考えをもたない若者は、
             事実とちがうことが分かってうなずくのではない
             ルールと一緒にいることが嬉しくてうなずくのである

      事実の何かに対してうなずくのは、大人のうなずきである。育って大きくなったことの「あかし」である。成長
     にともなって、前提となる具体的な対象をもたない若者のうなずきに、限定や禁則への「懐疑の笑い」が紛れ込ん
     でくる。そして、ルールと事実は多くの点でつじつまが合わないことに気がつく音楽観が得られ、人間が想像した
     色彩ゆたかな響きとさまざまな和声法を応用できるようになる。さらには、非均質的な空間に対しても首を縦に振
     れるようになる。

             古典音楽の世界では、知恵ある人たちは導音をさまざまなな音に進める
             それはどのような形でも存在していたのだから
             音楽的な感覚をもった人間は大作曲家が実践したように自由にあつかう
             しかし、それをみたある若者は、
             ....... いい加減な知識では困る、
                彼らはルールのことがまるで分かっていない、とため息をつく

             自分自身のもつ合理的な音楽体験にも立とうとしない若者は、
             そのルール違反は天才といえども見落としたものである、と教えられ
             ....... 眼を大きくあけて、何度もうなづく

             J.S.バッハ・ヘンデルがどのように試みたとしても
             ハイドン・モーツアルト・ベートーヴェンの和声が、どうであれ
             ....... 導音は限定進行音、その限定はスマートである、と考え
                事実の存在をルールに限局してしまっている

             このように、規則に拘束されない「ひと通りを心得た和声」、
             洗練された「古典和声に倣った声部書法の基本」とは、
             ....... それが何であるか、それすら理解できていないのである

             若者が何かを望むことができるのは、歴史を思い出せる間だけである
             実在の世界をなくした若者に未来はない
             空っぽルールの4声体、若者たちは禁則の監視人である

             感覚の鋭い人間に言わせると
             たいていの若者は出口が分からなくなると、帝王になりたがるという

       「ここに、自然な世界観を放棄させられた聴感覚の典型がある」。

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* 定義変換 *


       誰が考えても納得できる対象の否定に向かわざるを得ない規定、 つまり古典音楽を和声理論の例外領域に
      おとしめ、単なる無機的資料とみる「和声 理論と実習」の必然的本質への定義変換さえも拒否していた限定
      規定が、そうした動機形成の一因となっているのは明らかである。もともと彼らは短絡的に付和雷同する動
      物の群れではない。多様に変化発展する和声の本来的な実体概念を充分に知らされていないのである。した
      がって、その実習は人間の思惟とはちがい、一定の入力情報によっていつも決まった出力動作をするオート
      マトンのような所作づくりが目標になる。その身ぶり手ぶり(限定による実習状況)を見ていると、古典音
      楽という実在に対してのネガティヴな関係は容易に想像できる。

             ルールの洞窟に迷い込んで帰ることができなくなった若者たち
             どうしたらよいのかを考えても道筋がまったく分からず
             救いに行けない大人たち

        たとえば「この足し算の答えは正しいか正しくないか」_の数的正誤を判断することはたやすい。しかし
       歴史的実在において、ひとつのルールが真であることを見い出すのは容易ではない。まして検証データが多
       数集まって互いに依存し合い体系的に構成された理論ではなおさらである。ルールとは、やっかいな言葉で
       ある。音楽辞典などで大真面目に「ルール」と引いても、いっこうに腑におちない。およそ辞典というのは
       個々の事項を説明するだけではなく、同時にその事項が帰属している世界をそこに開示してみせる。


▾            ▾            ▾


 和声の実践が音楽的かどうかを判断をするのはルールである。もちろんこの場合、創造的な実践をするのは聡明な人間であるが、音楽的かどうかを判断をするのはルールになったことになる。これは何とも「奇怪な理論環境」である。この、ふつうと変わっている環境から解放されない論理の全貌がおぼろげに見えてきたところで、それがなぜルールとなってしまうのかに眼を向けてみよう。
 和声はどのようにしてつくられたのか、を聞かれると、やはりそこに人間の思惟や選択が登場するのが自然な世界観である。そうした世界において人間にはまだ発想の飛躍が可能であり、主観的な限定や制約にしか興味がもてないような状態になっていなかったことは、むしろ正常なのである。好奇心のない世界ほどつまらないものはない。もしルールを覚えること、ルールに従うこと、和音を借用するという解釈以外に何の思考活動も残さないような理論は、今日ではもう、「ひと通りの理論」とはいえないだろう。このことは多くの作曲家や演奏家,そして音楽学研究者によっても指摘されている。人間の和声の世界に対する好奇心を、なにも疑似科学的な理由づけで均質化する必要はない。なぜ和声の世界を研究するのか、という問いに対しては、和声の世界があるからだ、という答えしかないのである。 21 世紀に入った現在、人々が和声の世界に対して抱く関心は、質的にも、これまでとはまったく違うといってよい。それにはつぎのような事情が考えられる。
 まず、今世紀初頭までの古い和声の世界像は、いわば静止画のようなもので、とりわけ規則主義者たちは和声の世界は均一なものだと考えていた。あの自然の原理に基づく和声論で有名なラモーでさえ、和声の世界は均質なものと考えていた。そして、和声の世界が静的で均質あるから、それ以外の和声があろうとは誰も考えもせず、和声の世界はすべて規則論と公理論だけの知識で理解できると考えていた。規則規定の囲いから一歩も外に出られない規則主義者たちにとっては当然のことであったろう。だが、これは命題解明の喪失にほかならないのである。
 ところが 20 世紀も終わる頃、様々な和声現象を展開するバロック和声の体系構造が次々に実証され、西洋古典音楽の調構造への実体論的思考が検証分析的にも理論的にも検討された。さらに、和声空間を自由に動きまわる「導音進行の実体」が古典派・ロマン派和声においても事実であることも判ってきた。最近では、西洋音楽の根本的な生成要素となる組織的体系、いわゆる「教会 12 旋法」および「旋法和声」といったものまでが登場して話題をにぎわせている。現代の理論家によれば、今日の「実証的方法」によって明らかになった古典和声の世界像は、きわめてダイナミックである。つねに「進化」を続ける調構造、「全方位的」な旋律と和音進行、「結合・分離」を繰り返す音組織など枚挙にいとまがない。和声をつくりあげたとされる大作曲家も、ただ一律に眺めているわけにはいかないほど多種多様である。


 自明な命題
 音楽の専門的な知識環境において、規則主義的な和声理論は非現実的である。それは事実認識を定義の出発点とする実証主義的立場を認め、その検証結果を整理分類し直す必要があるにもかかわらず、特殊な観点から経験的実在から得られる創意工夫を活かす志向を否定し、事象現象の多数と多様の説明を放棄する。つまり、既存の規則禁則が指し示す概念的方向が事実に沿った法則を見い出すための認識基準ではないことが明らかであり、その由来証明のない認識基準を基本的前提とすることによって個々の実践的存在は無視され、理論は数的統一である「一元論の悪弊」に陥っているのも事実である。とはいえ、ここで私たちは立ち止まり、落ち着いて足下を見つめ直す必要がある。そのことによって私たちが判っているのは、「和声テキストが実在するさまざまな事実を切り捨てたうえでそう主張していること」、また「公理的理論が規則禁則遵守によって作られる疑似モデルのあり方を、和声の基本的な性質にすり替えていること」に気づきさえすれば、「唯一性の概念という限定制約の性質は、いっさいの多様性と変化性を排除するために、古典音楽を基本的前提として対象にした和声理論が存在する限りにおいては存在しない」、ということである。


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* 理論的命題 *


 いまではJ.S.バッハの作曲家としてのごく自然な思考と選択のひとつ、多様な導音進行の動き(導音は限定進行ではない)に触れるだけで、過去150年間に和声の世界の事象現象の根本的な過程についての私たちの理解が変わっていったことが分かるであろう。導音進行が、変化のある調構造と相互作用して単なる限定進行音として存在できなくなるということは、事象現象全体の「非均質性」に基づいている。原理的に全方位の方向性をもつ音運動の場は、わずかな動きに籠っている音進行が自由な動きの音進行に影響されることによって多くの音進行を自然に「生成」することができる。この過程ではいつも両方向の進行がほとんど同時に生成され、たとえば、上行進行は下行進行と共に生成される。こうすれば、事象と現象が非均質であっても、多義的な方向性と構成法そして調和ある構造体系などの相対的特質が確保される。また上行と下行の対になる進行はすぐに融合し、連携し合い、そうした個々のカデンツは古典音楽において「調和声の一般原理」として機能している。
 バックグラウンドの思惟・選択の密度が低くても、対となる音進行が生成されるということである。もちろん対になる音進行が生成されるには、その相対的特質が短い歴史的時間内において互いを否定しないという条件が必要であるが、これは和声進化のための非均質性原理によって決まる。平たく言うと、対になる音進行がごく短い歴史的時間において存在できるだけの人間の思惟と選択さえあれば、そこにおいては対になる音進行が存在できるといえるということで、どのような様式においても和声空間のなかで多くの音運動が生成されている可能性があるということは容易に察しがつくことである。古典音楽の個々の象徴的な調体系には、思惟と選択による多数の音運動の場が存在する。だから、理論的に考えれば、和声の世界で対になる音進行が生成されると考えるのが妥当である。そのことを踏まえると、現代の実証的研究によって、はじめてこの当然のことが理論的に解明されたのである。

      音進行が生成されるとき、人間的実現行為の開放的な思惟によって、音進行は多種多様な方向に向かって動き出
     す。これは和声の世界に歴として存在する人間的実現行為による。もし調体系において自由な音進行をもつ形態は
     あり得ないという論理を妥当とするのであれば、聴き手に様々な調性感を与える機能は消滅し、空間にただひとつ
     の事象と現象が漂っているだけだろう。

 しかし、限定されるただ一つの音進行からは何も起こらない。ただ一つの音進行で奇妙な状態に陥ってしまった現象は、この状態から逃れることはできず、また事象も同じようにこの現象を追い出すことができない。そうなれば和声の変化・発展は不可能となる。その結果、音運動範囲の損失が大きくなると、進化する事象現象として存在する意味はなくなり、あまりに萎縮した調概念とその構造は継承されることもなく歴史から消えてしまう。

      この状態を解決するためには、発展的な答えの得られる新しい思考選択が必要である。新しい発想によってこの
     状態が不合理と判断されるならば、対になる音進行によって、調構造の現象に何が起きるのかを予測することがで
     きる。これに対する答えは、対になる音進行の生成によって、調確立の様態が変化発展し和音連結の領域を飛躍的
     に拡大することができるのである。このような「和声の相対的属性」に私たちが検証する実際の和声の世界と相反
     するものはまったくない。そして、これらの事実は、和声の存在とその起源が旧態の公理的方法の枠を出た理論構
     成の必要性を浮き彫りにしているように、規則禁則そのものも公理的理論の範囲を超える必要があるということを
     私たちに示している。

 これまでの説明は簡単すぎて、実証的研究によって開発された理論を十分に論述してはいない。これらの理論の合理性は言葉では言いつくせず、和声の世界の歴史的な経緯と構造特性に関わる譜例が示されてはじめてわかるものである。だが、これらの理論の結論は明確で容易に理解できる。いずれにせよ現代のシステム社会が備えるにいたった音楽文化的な柔軟性を考えると、和声理論の論述の対象とは特殊例を除いてむしろ広義の経験論の立場に立つ古典音楽を対象にした現実体験であるといってよい。卓越した理論的な観点を整え、新しい感覚やエネルギーをもった作曲家たちの実践的実在に考察と分析を加えることであり、その前で考えることがいちばん確かなことなのである。和声理論における常識とは、「理論の妥当性そのものを問題にする構造認識」および「論理の方向が妥当か否かを問題にする言明や法則の間にある相互関係」は一体となり、それを通して理論が構成されているのであって、問題の本質は、この理論と論理の内実が合理的に構造化された現実的な和声の世界、つまりその恩恵を共有する文化社会と融合しながら基本的な知識となって成長し続けていることにある。
 事実を証明することを最も確かな認識方法とする立場がそのきっかけをつくったが、その概念認識論がつぎには実証的な和声理論構築のきっかけをも与えることとなった。私たちはすでにこのような理論に対して「実証的な和声理論」という言葉を用い、「事実認識の基盤となるもの」と表現してきたが、換言すればこの現代的な和声理論の基本的前提における命題は「検証分析的な定義概念」ということになる。和声の世界はそれぞれ特性があり、多様な特性は構造的機能的に統一され、また、一つの事象は、それを構成する複数の現象が相互に関連し合って、全体としてのバランスを維持しながら成り立っている。いずれも組織されたものである。それを解明する理論と論理もまた組織されたものであり、検証における分析の過程は、判断のよりどころとなる明証的な認識に到達できるように組織された論証の一形式である。和声のもつ両義性など、すべてはそれぞれ人間的実現行為によって組織されたものである。そのような和声的メカニズムを通して概念が構成される体系を、一般に和声理論という。
 現代の和声理論は、前世紀までのそれとちがって実証的和声理論といわれる。そのわけはいうまでもなく、検証分析などの技術の発達によって、検証できる和声の世界の領域がほとんど全領域にまで及んでいること、また理論構成においても、幾多のカタログを駆使した分析をクリアしてきた認識の根拠づけと、意義ある対象の理解にとって必須の実証的研究の明瞭な知識を私たちがもつようになったことにある。それは、基本的前提となる定義概念を充分に与えられていない人間_学習者_たちを先頭に立たせるのではなく、つねに新しい刺激と素材を提供しつつ、いわゆる概念の形成過程において保証する人間の創造的想像力との包括的関係_思惟(能動性)による存在(創造的実在)としての実践(実現行為)_を聴取しながら認識できる道を開く必要がある。そうなれば、音楽における事象現象の現実的な「実体」を見い出し、実在の根底に流れる「相対的特質」を結びつけることによって、特定対象の事実存在_現実性と効用性_の確保は可能になるのであり、そのためには、知識の起源および枚挙的な限定制約の成立根拠を明らかにするとともに、認識の可能性の限界をめぐって客観的実在性の検証分析が要求されているのである。和声理論にとってこの「命題の解明」は、いまや重要な課題となった。



# by harmony-front2 | 2024-01-20 15:16 |   実在の基本概念
2024年 01月 20日
事象現象の本質
事象現象の本質
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 実在の検証においては、それを認識する場合、そこにはある種の能動的な意識が認められる。なぜなら、認識実在が思考のなかに実体としての位置を確保するためには、何らかの命題的関与なしに説明することは不可能だからである。しかも、それが多様な可能性を得て存在する実在を認識するためには、検証された実践のすべてを同時に包括して併置する音楽的思考の自然な働きが必要である。もし実在を認識する考えを否定したり、あるいはその考えを除去するように強制されたりするのであれば、直ちに、それらの要素的部分をなす実践の総合が私たちの意識から消えてしまう。つまり、それ自体可能性の選択肢をもたない個々の実践は、何もそれに加わらなければ、そのままの状態にとどまることになるのである。
 ここから、私たちの知識はただ単に規則主義そのものの限定規定に由来するのか、それともより実在の本質に由来するのか、という問題が起こるが、そのことがすなわち何を意味するのかと言えば、前者は非現実的規則性あるいは限局性によるものといわれるのに対して後者は必然的な合理性もったものといわれるである。こうして、必然的な合理性は、この知識のなかに根源的認識とそれの明証的な一般原理とを見いだそうとするのである。そのためには、検証の立場に立ち、実践とそれを支える実体としての実在とを本来的な方法で分析し、実践に対する規則論の不確実性・事実誤認すなわち不整合と矛盾を確かめることが重要である。
 たしかに今日の和声理論がほとんど実証的な研究基盤によって構成され、それぞれにその理論の和声というものの考えを読みとることができる。総合的にいえば事象あるいは現象という概念には、実在の検証分析に依拠する概念化で定義づけられた対象という意味が合意されているのである。実践的実在の検証に興味をもった人たちはいた。前章でも触れたが、和声理論と演習の究極の狙いは、現象について探求し、事象について語り、理論とは何か、という問いを問うことにある。この問いは、実はボエティウス、グラレアーヌス以来、音楽教本が常に問い続けてきたもっとも基礎になる問題であり、この「問いを問うこと」は「理論への問いかけをあらためて反復する」ことなのである。しかし、彼らの手からは対象の検証結果から抽出された実践に関する理論は出ないまま終わっている。
 その場合、規則にしても禁則にしても、これらの規定は「すべてをそのなかに含む」という原則に沿うように意味内容を表すだけであって、根本的な問題にはまったく触れていない。当然、事実存在の実践構造の解明には成功していなかった。これに対して、最近になってやっとその事態が明らかになったところである。もちろん、抽象の成果といえども、所詮は前提が指し示す動的で非均質的な特定対象の事象現象とは矛盾する規定にすぎないのであるから、それを常識的な実在性究明のための高度な和声理論と考えることはできないだろう。とすれば、私たちはこの規則禁則・和音配列のところで、閉ざされた「厚い壁」にぶつかってしまう。壁の外側はあらゆる手段を用いて検証するしか、方法がまだないのである。しかも、壁の外側には何もない、という保証はどこにもないのである。
 壁の外側は、規則禁則論では「普通の例から外れているもの」という意味であるが、実証的研究によってその概念は一変した。現代の進化を続ける和声理論においては、それは決して例外あるいは例外規則という枠組でくくられるものはなく、相対的な事象現象がさまざまな可能性を展開する変化のある世界、まさに人間がその多様な動的本質性を実現したものなのである。この壁の外側にこそ、自然な和声の謎が秘められているといっても過言ではないほどである。もし私たちが限定制約から身を引き離して、この和声に精細な検証と分析を加えるとしたら、どういう和声の世界を知ることができるのだろうか。思惟可能で理解可能な古典和声の実証的研究によって基礎づけられたその実在性に眼を向けてみよう。


 演繹未満の弊害
 古代ギリシャにおいては、本質と存在とは一つのものとされていた。プラトンによれば、その本質とはある対象が本来何であるかを特定するものである。それは決して抽象的概念に尽きるのではなく、個々の存在を成り立たせている対象全体であった。また、アリストテレスが本質と呼ぶものは、事象現象からなる対象であるとともに、対象の客観的な概念的本質である。したがって、本質は存在である対象を離れて存在するということはない。このように対象の概念的本質つまり存在は本質を意味するものなのである。おそらくそのことをはっきり認識したからであろう。実証的研究は、ある抽象的概念が存在のなかの一つのあり方として、また、存在が本質を意味するものとして考えられていた古代ギリシャにまで遡って、眼前の「対象の事象現象」をとらえ、それが「起源的な存在」へ、さらに、実在する歴史的規模の存在ー「オルガヌム・旋法和声・調和声・拡張的調和声」へ進化していく過程を問う一方、「事象現象の本質から対象の本質」を、また、「対象の本質から事象現象の本質」を解明しようと試みている。

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 そもそも和声理論は過去においても、検証分析によって定義されている実在和声と疑似和声は区別され、疑似和声と対置される実在和声の領域は、歴史と実践や検証された事実と本質などの存在領域と解されているのであり、現代においても実在和声の全体を、「実在検証トその分析によって定義されている実在和声」と「伝統性そのものに疑いの余地もある検証放棄の疑似和声」を区別しているのであるから、たしかに和声理論には、今日私たちがその事実や本質と考えている実在和声の領域を指す意味はある。

      とすれば、不自然な見分によって支えられていた事象現象の事実認識、および人間的実現行為に依拠する概念
     的本質を、音響学を装った`疑似科学`、移り変わる進化から引き離された`疑似和声`、そして、重要な役割
     を果たす機能システムが保持できない`欠陥規定`のなかに学習者たちの思考を閉じ込めてしまう考えは、往々
     にして間違っており、多くの点で不完全なものである。

 合理的な「事実存在」いわゆる「和声の世界」で考えると、断片的小部分の限局的な特定領域内では倍音共鳴論でも細々ながら説明は可能であろうが、そういう多くの領域が接触するところでは、伝統的な実在を自然と見る多様に変化する和音の進行が存在しているのである。その進行が人間の思惟と選択によって限定的なこともあれば、相対的なこともあり、多元的なこともある。このような構造は、全体が一つの完全な均質状態になることを回避しようとしているのだから、現代においていわば「原理的説明のできないラモー和声論(倍音共鳴による閉じ込め)の乱用」は、音楽の世界の人々が現存在という概念のもとにみていたもの、つまり「事実存在」のその「本質存在」の実践構造をとらえようとする理論体系として妥当であるとはいえない。
 実証的研究は、理論の発展に伴い現象の新しい法則を見い出し、この法則としての一般的事実に特定の実践的事実を結びつけることによって、その事実の現実性と有効性とを確保しようとする。しかし、観念的で古い考えの規則主義は危機的状況を問いつめる方向に向かうどころか、むしろ、対象との実践的交渉を基盤にして行われる概念の形成過程をますます限定・制約的にルール化する方向に向かったのである。ひとたび規則違反や禁則と位置づけてしまうと、それに合うものだけを次々結びつけてしまう。そうなるのは、規則主義が意図的に分析状況の中立レヴェルを妨げ、和声の世界の現実的な多様化に規則主義者の成長が追いつかなくなったからである。

      周知のように公理的方法で構成される理論においては、公理から矛盾する命題が演繹されない無矛盾性、さら
     に、公理から演繹される命題は定理となる完全性、という条件を満たすように求められるが、しかし、西洋では
     見せかけがとくに肥大化した公理に生じる自己矛盾克服のために、そこから検証分析に対する再検討やパラドッ
     クスの発見による「定義変換」の立場がうまれ、文化社会において音楽活動に関わる人びとは、とくに、音楽理
     論家_J-J.ルソー、O.アラン、作曲家_V.ダンディ、P.ヒンデミットたちの考えによって次第に疑問視されていく
     ラモーの和声論をはじめ、安っぽい禁則連続5度というア・プリオリ的な理論や論理が解体のふちに追いつめら
     れるのをみていたのである。

 たとえば「古典音楽に関する和声理論の体系化」を厳密に行なおうとするなら、どのような場合でも検証分析している当の実体そのものを否定あるいは括弧入れするようなことなどけしてできないのである。それよりは「むしろ公理がない和声論という批判を受けた方がよい」、「いわゆる言葉レベルでの公理への依存は、結局のところ本質を見失う」。これはよく知られた西洋音楽理論史における和声学的事実である。和声の世界はきわめて多様であり、それらはまさに人間の思考が「新しい発想」にこと欠かないようにするための源泉である。実証的研究におけるような構造認識との融合が、現代における和声理論体系の実証的な構造的概念であるとすれば、ボエティウスやグラレアーヌスによる論述との交流もまたそれに劣らぬ「実証的な構造的概念」である。今日の和声学において必要なのは、限定制約に支配されるような公理や規定をのり越えることによって、発想の源泉である創造的想像力すなわち人間的実現行為に関する事実を見定めることである。


 事実存在の検証
 人間社会の歴史的な文化創造のプロセスは、「実践(事実)が先にあって理論(検証)は後」なのである。そのような理由から、たとえ実践(事実)に先行する古い象徴的な意味あるいは判断があったとしても、その妥当性には移り行く時代状況や社会環境に関して限界があり、そこに述べられる「基本的基準」も再構成されていくものにすぎない。とはいえ、旧態の認識論とその過程の曖昧性が明白となった今日、私たちはさまざまな文化創造における多様性の存在を認め、それらを整理分類し直し、そこから実践上の諸々の帰結を引き出すような理論が必要になってくる。
 したがって、理論構築の目標が、古典音楽の分析さえ拒絶する公理が自明なものであることを、また非科学的で非常識な立場を語るのではなく、実践(事実)の検証によって歴史的・実践的実在に適合する基本概念(理論)をつくりあげ、人間の文化的な日常生活を利することにあるのは当然であろう。すなわち、新たに生じてきた問題を再検討し再検証することにある。和声理論の教育において、認識的に偏った見解や明らかな誤判断、批判的に再考される和音表記法、そして、決して語られなかった「実在の存在証明」こそ真の課題であることを多くの人は知っているのである( 和声理論:総合_実証論的効果 )。
 たとえば、 J.P.ラモーは「才能に恵まれた作曲家であるなら和声的な規則に当てはまる正しい旋律をつくることができる」と述べている。しかし、それは倍音共鳴や一つの根音進行を前提にした規則上での論述である。ところが、このように述べるラモーの音楽作品の和声を検証してみると、規則などを遵守した和声ではないことは、つまり彼の音楽作品を聴いて検証してみるなら、「自分が和声として実践しているハーモニーの構造」と「自分が理論として唱えている自然的和声論(Chapter 19 )にもとづく秩序や法則」とが合致していないことは、フランスの音楽識者の誰もが熟知していることなのである。
 となれば、公理という認識に先立つ実在和声の多義性の事実が明らかにされたにもかかわらず、近代和声論の手法を現代和声論に適合させるために、部分引用による自然倍音列に基づいて、人間的実現行為に定位して生成された古典音楽の「和音進行」を説明するのは、現代人のもつ高次な知識からすると奇妙な話である。その証拠になるのが、最近掲載された 「Web_和声 - Wikipedia」 の限局された原則である。この原則に随順した奇怪な疑似和声(規定の和音配列に染まった和声)と実在和声(バロック・古典派・ロマン派和声)との不一致は決定的な問題なので、これをまず考えておきたい。
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 上に示した「(1)」の和音進行は「科学的現象」でないことは明白である。いや、この概念だけではない。「(2) 」の和音の進行は、ある一つの根音進行の音程的函数_5_を単に連鎖した配列である。また「(3)」の和音の構成はどのように説明できるのであろうか。_もはやこの「和音の進行と構成」いわゆる「和声的メカニズム」は自然倍音列の原理に基づいて証明できるものではない。過去の理論家は、古典音楽にしても、それと連動している理論にしても、それがどのように生起し、どのように実践されるかは、けっして理論的に一義的に決定されているものではないのであって、人間的な実現行為の自由な活動にゆだねられていると考えている。したがって、歴史的な「存在」の諸概念を、演繹の基礎となる前提を思わせるような似非科学・数的関数の当てはめとは明確に区別する必要があり、公理的理論においては公理から矛盾する命題が演繹されないことが要請されると言う。たとえば、「Ⅵ→Ⅱ→Ⅴは規則主義者が自己主観的におこなう認識および聴覚判断、つまり対象の限局化したものを示しているにすぎない。ゆえに「(2) の和音進行は古典和声の基本的な存在概念である」と結論する公理は誤りである、と主張する。
 こうして現代の理論家もまた、歴史的な意味での存在概念とは、広い狭いは問わず、どれもが一律に音響学・物理学的な原理によって論証できるようなものではなく、実は、人間が想像と思索や経験のなかで獲得した「存在」であったことを確かめるのである。


 均一とは無秩序状態
 古典音楽の和声構造が全部同じだったら、音楽文化社会はカオスである。なぜなら、どれも区別がつかないからだ。自然倍音列によって均一な状態であることを説明するのは簡単で、たった一言でよい。たとえば、低音旋律の度数進行が限定されるとか、それ以外の和音の進行や和音の配置がすべて禁じられている、と言えば十分である。ところが、均一でないと、その説明には多くの理論情報が必要になるのは、図書館の分類に関する様々なアクセスを思い浮かべてみれば明らかである。そして、何ごとも倍音共鳴の自然作用に任せておいて、調構成あるいは旋律と和音の進行がひとりでにできたというのは聞いたことがないように、無秩序状態から秩序ある状態にひとりでに移行することはない。

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 そもそも概念規定は、和声構造の認識において何よりもまず理論構成上の基本単位をなす要素である。それゆえ、事実に関わる総合作用の一つの要素としてもっとも重要なのは、事実の実証的研究に基づく理論であろう。私たちは諸事実から理論を組み立てる。しかし、事実と認識される古典音楽に関与する総合作用が「人間の思惟」や「人間の選択」を前提としている限り、総合作用としてはたらく経験的な知識体系が概念枠組となってはじめて事実の認識が可能になるのである。このような概念枠組のなかで、私たちは事実を取り扱うのであり、そうした認識は歴史的・実践的実在を通じて行なわれる。このような認識への根拠づけへの強い関心は、一方において、多義的な概念を定義する前提条件としての実証的研究への傾斜となって現れる。そうした多義性のなかに、和声理論という学問を進めていくための一般的な立場における共通点が認められるのであり、その共通点が「検証分析」ということになる。事象や現象の概念が、実証的研究によって根本的変革を余儀なくされた、といわれるのは、どんな意味か、実証論によって検証分析という認識行為の本質的意味が問われているのはどういうことなのか、という和声理論のもつ概念枠組への認識論的な批判と再検討は、現代の和声理論が本来的に扱う問題といえる。
 今日の和声理論は、人間的実践行為の成果や検証分析をベースにした学問であって、その発展ぶりは検証分析面での質的な進歩と実装的研究の進歩を抜きにして語ることは不可能である。たしかに実証的研究以前の旧態の公理的理論に比べると、和声理論においては事実の実証的研究の果たす役割は飛躍的に増え、現代ではその基盤のほとんどは実証的研究の領域となった感がある。 21 世紀に入ってからのとくに検証分析の発展は目を見張るばかりで、さまざまの基本的な問題が解決されてきたのは誰もが知るところである。和声構造の基本的構造が検証分析によって明るみになり、それに基づいて和声テキストの開発やその他の音楽理論の発展があり、それは和声学の世界にフィードバックされ新しい枠組概念の進展に寄与するという、ポジティヴな環境がみられるようになった。属和音と主和音を含む他の和音との連結において、「導音」には「相対的」な機能に基づく音進行がともなう。導音進行の展開が多様であればあるほど、多数の調構造が生成される。だから、様々に変化する調構造の否定を余儀なくされた公理的理論の定義概念からは、私たちが経験している和声的調構造は説明できない。音楽的な和声理論は「認識根拠とその過程(音楽について語ること)」、すなわち「多様な性質を担い歴史的・実践的実在(音楽的な現存在)」がなければ成り立たないのである。したがって、私たちとしては、理論家ボエティウスとグラレアーヌスの助けを借りて、音楽的な和声理論の前提となる音楽的な対象に織り込まれた「調和ある体系」を次のようにまとめることができるだろう。
 「収集館」や「貯蔵庫」のスケールでは、概念が一様であったり、ただ並べられているだけでは、もはやそこからは何の変化も起こらない。これが「均質状態」である。ところが、和声の世界のような体系は概念が一様であるというだけでは均質状態ではないのである。つまり、概念的には均質であっても構造的に均質ではないのである。少なくとも1つの様式では、さまざまな現象が生成され変化のある高度な構造システムまでが現れる。さらにそこから進化が起こりえる。このような進化では、そのための重要なファクターがあるのである。それが人間という実践的存在である。その能動的な実践構造によって諸構造が互いに引き合い、やがて大きな構造を形成していく。そうすることで音組織・構成法・様式特性の可能性を解放する。解放された実践力は現実的な技法となり、有効な志向となって周囲に行きわたる。つまり、和声の世界を仮想的な一元化から遠ざけ、倍音共鳴の命題に逆行するような統一体系をつくりあげる原動力となったのは、ほかならぬ実践構造の非均質性である。構造的な非均質性が宿るのは和声学の理論体系だけではない。美術も建築も、そして文学も舞踊もそういう非均質性を含んでいると言えよう。これについて、現代の研究者はこう述べている。

      「私たちは今、歴史的な現場に立っている。和声に関する論述は、空間的な広がりにおいても時間的な長さに
     おいても壮大である。しかし和声理論家と呼ばれる一群の人たちは、さまざまな手段を講じて和声の世界のなか
     に検証と分析の目を向け、その実体を明らかにしようと励んでいる。むかし人々が単旋律聖歌を平行唱法で歌う
     ことから始まった起源的和声への素朴な関心は、相対的な検証分析の上でも概念の形成過程における多義的な抽
     象においても大きい進歩を遂げた。和声の世界が最初にオルガヌムとして誕生して以来の進化を考えるとき、今
     まであまり触れられなかった歴史的(現実的)な事実存在と実践的(有用的)な人間的実現行為という本質存在
     の概念定義は否定できない」。

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* Contents _ https://aptus.exblog.jp *


 近年のこうした和声理論は、新しい概念定義の内部に生じつつある変化を確かに実感させるのである。従来的な規則論(原則)が、固定化から事実(実在)に基づく「論証」に移行するということは、時代がいわゆる唯一的概念の認識から相対的概念の認識へと移り変わっていることの「象徴」と言ってよい。人間的実現行為において形成されたリアリティを確保するために、前向きな分析責任の明確化が求められているのであって、いつまでも将来的な問題意識を欠いたままではいられないであろう。様々な要素で多様性・変化性を保持しながら連係する和声の実在全体は多義的であり、本来、実践的実在の統一体系は、他の現象に対して境界線が取り払われ流動的な過程をもつオープンシステムである。もし、そのシステムが私たちの日常生活とひと続きである共通のイメージに展開された相対的概念を受けとめる人間のなかで完成されるもの、ということを捉えるなら、"非均質性"が生み出す「事象現象の本質」はどのように描き直せるだろうか。和声の世界は、唯一性に向け均一化しているのではなく、不均一のまま多元化している。したがって、現実的な和声の世界は有用的な概念であって、生成過程の全体的な空間のなかで時代様式はひとつの開かれた可能性として進化に準じて広がってゆく。このように進化する世界では、多様な実践構造は人間が感受し反応しうる有効な総体であり、その世界の創出口と考えるのが妥当であろう。いったいどのようにしてそうしたあり方が理解できるようになるのであろうか。
 このように考えることができる。私たちの周りに存在する和声領域の、時代様式、伝統性、共通感覚という動的な様態を、変化が苦手な限定規定という繫縛のなかで和音の配列や声部の書法に当てはめることは絶望的であるが、「不均一な体系構造」が和声の世界の実践構造のもつ本性であるという考えは、グローバルな音楽文化の「開放性」、つまり歴史上の「バロック・古典派・ロマン派音楽」に立ちあらわれる「環境構造(存在)と基本原理(特質)」によく当てはまる。また、この存在と特質は開かれた可能性と現実性の存在する「和声理論の未来」を予言しているのである。


                                         中 村 隆 一

                                     「 大作曲家11人の和声法 」 著者


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